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『トンイ』も生きた朝鮮王朝の王族女性3強!どこが一番恐ろしかったのか


Desmond Milligan

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『トンイ』が生きた朝鮮王朝において、歴史に残るほど強い性格を見せた女性を取り上げてみよう。それは、貞熹(チョンヒ)王后、廃妃・尹氏(ユンシ)、そして恵慶宮(ヘギョングン)の3人である。彼女たちの姿は、栄光と悲劇を鮮烈に映し出している。
まずは貞熹王后について。
7代王・世祖(セジョ)の妻である。彼女は冷静で剛毅な眼差しを持ち、夫の運命を左右した存在であった。世祖が政変を起こそうとしたとき、貞熹王后は夫の心の迷いを瞬時に見抜き、ためらう彼に鎧を着せて力強く送り出したと伝えられている。
その凛とした決断がなければ、世祖の王位はなかったとも言われるほどである。まさに「内助の功」の象徴であり、彼女の勇気と支えが朝鮮王朝の歴史を大きく動かした。
次に紹介するのは廃妃・尹氏だ。
9代王・成宗(ソンジョン)の妻だったが、その人生は烈火のような嫉妬にかられたものであった。夫の寵愛を側室に奪われた尹氏は、呪詛(じゅそ)の言葉を宮中に持ち込み、ついには激情に駆られて成宗の顔を鋭くひっかいた。500年以上続いた朝鮮王朝の歴史において、国王の顔に傷をつくった唯一の王妃である。
彼女は廃妃となり、1482年に死罪に処された。その最期に「私の恨みを晴らしてください」と言い残したと伝えられる。この言葉は息子・燕山君(ヨンサングン)の胸に深く刻まれ、やがて彼は母の死に関与した官僚たちを大虐殺してしまう。尹氏の激情と怨念は、彼女の死後もなお宮中を血で染めたのである。

最後は、22代王・正祖(チョンジョ)の母だった恵慶宮である。彼女は、21代王・英祖(ヨンジョ)の息子・思悼世子(サドセジャ)の妻として宮中に入った。当初は仲睦まじい夫婦であったが、やがて夫婦仲は冷え、恵慶宮は夫を激しく非難するようになった。
1762年、思悼世子は英祖の命令により米びつに閉じ込められ、非業の死を遂げた。夫を失った恵慶宮は世子嬪の資格を剥奪され、孤独と屈辱に沈んだ。しかし、息子・正祖が王位に就くと、彼女の立場は再び宮中で強まった。さらに正祖亡き後も、実家の名誉を回復するために奔走し続けた。
その生涯は、悲劇に耐えながら存分に我を通したものだった。1815年、80歳で静かにこの世を去ったが、その気丈な生き様は後世に深い印象を残している。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)



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