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終戦直前に完成 「幻の飛行場」の記憶、後世へ 元教員の願い 埼玉


Desmond Milligan

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「越谷飛行場」滑走路跡の道路。右にしらこばと水上公園がある=埼玉県越谷市で2025年8月8日、増田博樹撮影 拡大
「越谷飛行場」滑走路跡の道路。右にしらこばと水上公園がある=埼玉県越谷市で2025年8月8日、増田博樹撮影

 埼玉県越谷市とさいたま市岩槻区にまたがる地域に、かつて旧陸軍の飛行場があった。終戦直前の完成でほとんど使われることなく「幻の飛行場」とも言われた「越谷飛行場」だ。NPO法人・越谷市郷土研究会顧問の加藤幸一さん(75)=春日部市=は、目撃者や関係者への聞き取りを重ね、埋もれていた歴史を記録し発信してきた。

 8月上旬、越谷市のしらこばと水上公園。プールから子どもたちの歓声が聞こえる。平和を象徴するような夏の風景だ。遊び疲れた家族連れらがプールから駐車場に向かって横断歩道を渡っていく。その足元の道路が滑走路の跡だ。

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 加藤さんによると、滑走路は同公園付近が北端で長さは南北に約1・5キロ、幅は今の約10倍の60メートル強あった。米軍の本格的な本土爆撃を想定し1944年7月に13軒の農家が強制的に立ち退かされ、その後に着工したが、資材調達の遅れなどで完成したのは終戦直前の45年8月上旬だった。

加藤幸一さん=本人提供 拡大
加藤幸一さん=本人提供

 越谷市で長く教員を勤めた加藤さんが現役時代から注力してきたのは石仏の調査。約15年かけ市全域の石仏を正確にスケッチし、書かれた文字をすべて記録。加藤さんは「こうした例は他にないのでは」と話す。飛行場の存在は、その合間を縫って進めていた地元の歴史を掘り起こす調査の過程で知る。戦後60年の頃から詳しい情報をつかもうと文献調査や聞き取りを始めた。

 45年8月、同飛行場で着陸がうまくいかずバウンドしながらひっくり返った戦闘機「隼(はやぶさ)」が目撃されていた。救出された操縦士は長く「岩槻藩主の子孫」とも伝えられてきた。だが、加藤さんは疑問を抱き、旧日光街道越ケ谷宿の調査中に、同機を操縦していたという人物の息子を見つけ話を聞くことができた。

 聞き取りによると、飛行機は陸軍東金飛行場(千葉県)を離陸したが、途中で調子が悪くなり越谷飛行場に着陸しようとしたのだという。操縦士は金谷政勝氏で1920年生まれ。旧満州(中国東北地方)から東金に配属された指導教官だった。状況が目撃証言と一致することから、「誰が操縦していたかという事実に一歩近づけたと思います。経験ある操縦士ですが、軟弱地盤に作られた滑走路で着陸が難しかったのでしょう」と加藤さん。

 岩槻区の神社境内にある滑走路のコンクリートで作った記念碑の調査では、越谷市東越谷の東福寺裏から原料の砂を調達したことなども聞き取った。このほか、米軍機の目をくらますためベニヤ板で作ったダミー飛行機の存在や、今も滑走路跡南西に残る巨大なコンクリート台(用途不明)など、目撃者や住民の間で埋もれていた証言や事実を丹念に集めてきた。

滑走路のコンクリートを再利用して作られた「興農事業完成記念碑」=さいたま市岩槻区南平野の稲荷神社で2025年8月12日、増田博樹撮影 拡大
滑走路のコンクリートを再利用して作られた「興農事業完成記念碑」=さいたま市岩槻区南平野の稲荷神社で2025年8月12日、増田博樹撮影

 加藤さんは聞き取った内容をまとめ、越谷市郷土研究会のリポートやインターネットを通じて発表してきた。「聞き取りをした戦争体験者には亡くなった人や、記憶があいまいになっている方もいます。今のうちに、地元の戦争遺跡の詳細を後世に残さなければ」と思いを語る。

 講演や展示を通じて戦争を伝える活動にも力を入れている。

 越谷飛行場のほか、草加・越谷市境に墜落した米軍の爆撃機B29について目撃者らへの聞き取りなどを続け、その内容を市民らに紹介。毎年、小学生を対象に越谷市役所で開かれる平和展では説明員も務め、市内に墜落した日本軍の飛行機の話や疎開の様子などを伝えている。

 飛行場と戦争を伝える意義とは? 「平和への願いです。平和は当たり前のものではなく、知り、教える努力が必要です。私の取り組みが平和のありがたみを知るきっかけになってくれれば」と話す加藤さん。これからも「地域と戦争」の歴史を伝えていく。【増田博樹】

越谷飛行場

 正式名称は「東部軍越谷飛行場」。所在地の地名から「荻島飛行場」「新和(にいわ)飛行場」「論田(ろんでん)飛行場」などと呼ばれた。近隣住民の勤労奉仕や動員された朝鮮人によって突貫工事で作られた。不時着に失敗した戦闘機のほかに、旧日本軍機が数度着陸したという目撃証言も。戦後米軍が撮影した航空写真では、滑走路の東に半円で囲むような誘導路も確認できる。加藤さんは多くの関連遺構を確認し記録してきたが、時代が下るにつれてなくなったものもあり、「消失する前に戦争遺跡として残してほしい」と話す。

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